2018年4月12日木曜日

罪と罰と法

重い罪を犯したものを死刑に処すということは社会秩序を形成する上で重要なことである。罪に対する罰は無論罪人のためのものであるが、それに加えて、罪を思いとどまらせるための抑止力としての意味がある。罪は社会的合意の上に成り立つ。それは殺人・窃盗・傷害・詐欺といったことである。これらを罪と定めず罰しなかった場合、人々はこれらの罪的行為から身を守るための労力を各自がつぎ込まなければならなくなる。それは社会的秩序が形成された社会に比べれば著しく非効率的な社会という事になる。人は社会秩序の上に安心して効率の良い生活を送ることができる。それが社会の発展につながり、その恩恵を将来にわたって人々が受けることに繋がってくる。したがって死刑というものは必要なものである。しかし、気を付けなければならないのは罪というものは社会的な合意の上に成り立つという点である。この合意の正しさをどのように保証するのかということである。正しさというものは立場が絡んでくる故に相対的なものである。多数決という考え方ですら少数派の立場を無視しているのだ。この正しさというものを法に落とし込もうとした場合、ある程度落としどころを決めるしかないのである。だから私は法というものは仮的なのものだと思っている。法というものはどこまでも判例の積み重ねによって真の法に近づいていかねばならない。

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