秀吉のバテレン追放令はなんの前触れもなく秀吉の独断で始まったわけではなく、それなりの理由があってのことです。
1586年3月の時点で秀吉はまだ織田信長路線を継承し、キリスト教布教を容認しています。ところが1年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放に大きく方向転換しました。その間に秀吉は一体何を知り大きく方針を変えたのでしょうか?
1586年に家康を臣下とし中央を平定した秀吉は1587年に以前より援軍要請のあった大友氏へ援軍を送り始めます。そこで知ったのは島津の豊後侵攻で大きく荒廃してしまった豊後の姿でした。
1582年の「織田信長」の死と1585年最強の大黒柱「立花道雪」の死によって島津は豊後への進出を始めた。
1586年10月島津義弘3万が肥後路から島津家久1万が日向路からそれぞれ侵攻を開始。島津は大友の城を次々と落とし12月には豊後で最も栄えていた府内城に侵攻。
秀吉が1587年に本格的に援軍を送り始めたため島津は1587年3月に撤退。大友氏は寸前の所で滅亡を免れたが、府内は徹底的に破壊され多くの人々が捕虜として薩摩に連れ去られた。
長い間戦場となった豊後の人々は、悲惨な状態に陥った
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。
薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった
島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考えて良い。
この豊後の戦いでは沢山の人が薩摩の捕虜となりました。戦国の習わしとして雑兵が行う乱取りというものがあり、民家や食料の略奪・人さらいなどは普通にあったことのようですが九州の地は海外と貿易を行うのに都合の良い土地で、そこにポルトガル商人の奴隷売買文化が合わさって、長崎の港で日本人奴隷売買が積極的に行われるようになってしまったようです。
「一五五〇年から一六〇〇年までの一五年間、戦火に追われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった。」
ポルトガルと日本の交易において、「日本からの商品は、奴隷以外はほとんどなかったらしい」とある。
「秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが~(中略)~黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。」
平定した豊後を復興しようにも人が少なくなっており田畑を耕せない。国内で連れ去られる分には解放すればよい話だが海外に連れ去られたのではどうしようもならない。秀吉はイエズス会に厳重に抗議し、イエズス会からポルトガル国王にも陳情を行ったようだが、奴隷は主に東南アジアで売り捌かれており、国王の力がまるで及ばない。カトリックの教えを都合のいいように解釈すれば異教徒の売買は正当化されるのであった。
日本人奴隷の有名な話では遣欧少年使節団の見た話がある。
マンショ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。
単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。
しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。
秀吉は九州にきて、長崎が寄進されてイエズス会の領土となっていることを知り、その地で二束三文に人が売り飛ばされている事実を知った。そして1587年6月には大きく方針を変えてバテレン追放を布告したのでした。
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