2020年8月22日土曜日

120年にも渡り1度も戦闘に負けなかった最強の騎兵部隊フサリア

フサリア部隊が活躍したのは日本で言えば戦国時代後期~江戸時代前半辺り。遊牧系の投げ縄対策に馬の背に大きな羽根飾りを背負っていたので有翼重騎兵とも呼ばれる。フサリア部隊の特徴は、圧倒的少数で大軍を打ち負かし、自軍兵の損害が少ないことにある。

ポーランドの重装突撃騎兵隊フサリアは戦史上で最も精鋭であり効率的な軍であった。

10倍を超える兵力差を物ともしないフサリア部隊

1588年、時としてはスペイン無敵艦隊がイングランド海軍に破れた頃、ポーランドでは王位継承権を巡ってスウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサを推す派閥とハプスブルク家マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒが争っていた。シグムントが前王の妻からの指示も得て戴冠式を挙行するとマクシミリアンは武力に訴えることを選び、ポーランド継承戦争が勃発した。ビチナの戦いにおいてはヤンザイモンスキー率いるフサリア部隊がハンガリー騎兵を圧倒し、戦闘開始からすぐマクシミリアン軍が後退を始めることとなった。フサリア部隊は敵を蹂躙した。

1605年ポーランドとスウェーデンの間でリヴォニアをめぐり戦争が勃発。キルホルムの戦いでリトアニア大公国大元帥ヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いるスウェーデン軍歩兵9000、騎兵2000に対しフサリア部隊は2600騎の少数で突撃を敢行。スウェーデン軍を20-30分で壊滅させた。フサリアの戦死者は約100。スウェーデンは6000~9000人と言われている。


1610年ポーランドの侵攻を受けたロシアはスウェーデンと同盟を結んで反撃に出た。スモレンスク近郊のクルシノ村付近でフサリア部隊との戦闘が発生。ロシア・スウェーデン軍約3万5千人に対してフサリアは5千騎で突撃を敢行し相手を壊滅させた。戦闘は長時間に及びロシア軍の戦死者は5000人を数えたが、ポーランド軍は400人(うちフサリア100騎)ほどであった。

1683年の第2次ウィーン包囲網ではフサリア部隊3000騎はオスマン軍15万の陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほどの戦闘でオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りに潰走。戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。


1694年ホドウの戦いで400人の騎兵で4万人のタタール軍を粉砕した。

なぜここまで強かった?

当時のポーランドは軍用馬の技術で最先端をすすんでおり、トルコ軍から捕獲した高価なアラブ馬の繁殖に成功していた。アラブ馬は当時のヨーロッパの他の乗用馬に比して体格が大きめで高速でよく走る。徹底的に調教された馬は戦場で怯えることなく敵陣へと突撃した。

ユサール

フサリアは突撃型重装槍騎兵であり、敵のパイクよりもはるかに長大な「コピア」と呼ばれる槍がまず第一の武器であった。突撃し目標を貫通するとその運動エネルギーによりコピアは折れた。自陣内に従者たち(移動と輸送のため駄馬に乗っていたことが多い)が控え、替えのコピアを何本も持っていた。騎兵は一度突撃すると自陣へ戻り、従者から替えのコピアを受け取っては集団を編成して再度突撃し、これを繰り返して敵を粉砕した。

サブ武器も剣・斧と豊富にあり、戦況に応じて弓やマスケットも使用することができた。

味方の砲兵隊、弓兵隊、銃兵隊による援護射撃との巧みな組み合わせで行われた彼らの独特な突撃戦術は敵のパイク隊や銃兵隊に対しても非常に有効であった。

フサリアの装備や戦法は敵軍の銃撃や砲撃に対しても非常に有効で、フサリア突撃時の敵軍の銃砲による損害は常に僅少であった。彼らは大きく散開したところからゆっくりと走りだし、速度を高めながら徐々に味方との横の距離を縮め、敵陣に到達するときに最も高速かつ最も密集した形となった。

低密度で突撃すれば、騎兵槍1本につき敵のパイクは2本かそれ以上になる。しかし高密度で突撃すれば、この割合は1対1に近づく。しかもフサリアの騎兵槍(コピア)は5.5mにも及び西ヨーロッパのランスより軽かった。これにより騎兵部隊では不可能と言われていた槍兵突破を可能とした。



戦闘では無敵だったフサリアも経済的事情には勝てなかった。

17世紀後半になるとフサリアは衰退していく。その理由は銃砲の発達によるものではなく、17世紀を通じて共和国を襲った度重なる大戦争、気候変動による土地生産性の急激な低下、および一部シュラフタ富裕層(マグナート)の税金逃れ、彼らの増税反対運動による政府および各地中小シュラフタの経済的疲弊であり、国家や中小シュラフタたちが完全装備をした大部隊を常設維持すること自体が世紀末にかけて急速に困難になっていったことであった。

17世紀も終わりになると国内が政治的に大きく分裂し、国軍においては熟練した兵員数の減少および(馬も含めた)装備の劣化が激しく、フサリアはもはや実際の戦闘に使用できる軍団として成り立つ状態ではなくなっていった。これにより中世晩期から近代初期にかけて共和国の対外戦争を華やかに彩った最強騎兵団フサリアは、軽装備ながらも部隊の維持が安価で済み、戦術の工夫次第で高い戦力を発揮した槍騎兵のウーラン(ポーランド軽槍騎兵)にとってかわられた。


コピアの先端についていた白と紅の細いバナーは現ポーランド国旗の原型となっている。その羽飾りを象徴としたフサリアは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ最強の騎兵隊として知られ、当時のポーランド王国の黄金時代を作り上げた。史上最強の重装突撃騎兵部隊フサリアはいまも戦史上のロマンとして熱く語り継がれている。

2020年8月21日金曜日

猫の糞から作る超高級コーヒー「コピ・ルアク」


ジャコウネコの糞から未消化の種を取り出し作ったのがインドネシア原産のコピ・ルアクというコーヒー

世界一高級なコーヒー豆と言われている。別名が「猫のうんちコーヒー」。味はまろやかでさっぱりしていて飲みやすいのだとか。


もともとインドネシアにはコーヒーはなかったのですが18世紀にオランダがイエメンから持ってきました。オランダ人はコーヒーの苗を植え現地の人たちを奴隷として強制労働させていました。おいしそうなコーヒーをみて自分たちも飲んでみたいと思ったのですが農園主が許てくれません。それでもどうにかして飲みたいなぁと思案し探し回ってみたところ、ジャコウネコの糞の中に未消化のコーヒー豆がたくさん残っていることを発見しました。その豆を試しに洗って飲んでみるとこれがまた良いアロマで格別な味であったのだとか。このようにして超高級ブランドコーヒー「コピ・ルアク」が誕生しました。



ユーチューバーの方がこのコーヒーを飲んでみた動画

【コピルアク】超高級!ジャコウネコの糞のコーヒーを焙煎して飲んでみた!/ Kopi Luwak

有名なホテルだと1杯5500円もするのだそうです。映画「最高の人生の見つけ方」でも登場した幻のコーヒー「コピ・ルアク」。希少性が価値を生み出す典型的な商品といえるでしょう。


2020年8月11日火曜日

MMT理論は需要が供給を超える時崩壊する

MMT(現代貨幣理論)に関するサイトなどを最近一通り眺めてあることに気が付いた。それはモノの供給が常に一定以上満たされていることを前提にして話をしているということだ。

国民が十分豊かになりモノを沢山買う必要がなくなった日本のような国にはMMTは画期的で最適の経済政策かもしれない。かつておきた世界恐慌などにもMMTは有効だったかもしれない。MMTはモノはあるのにお金がなくておきる不況にとてつもなく効果を発揮する。

お金というものは使わなければどんどん流れが滞りさらに使われなくなっていく。これがデフレスパイラルで日本が長く陥った状況だ。そこで滞っているところにお金を供給してやればお金の滞りが解消され景気がよくなるとされている。国民が貯蓄を増やすため支出を削っていても無理やり景気を循環させることができる。。

おそらく理論の前提を崩しさえしなければどれだけ財政赤字を増やそうが国家は破綻しないのかもしれない。しかし理論の前提があまりにも簡単に崩せてしまう。

MMTの大前提はこれ。

貨幣の信用・価値は、国家徴税権によって保証されている。

確かに現在国民は国家を信用しお金を使っている。お金の価値の源泉は国家への信用信頼だ。しかしそれは生きるのに必要なモノを国家が発行したお金で買えているからだ。

なおMMTがハイパーインフレを引き起こすという議論を見かけるが仮にハイパーインフレになったとしても国家自体の信用が破綻していなければ何ら問題はない。物価が1億倍になっても1億倍分の紙幣を国民に供給し今の1億倍にあたる何か新しい単位のお金を作ればよいだけだ。しかしそれは必要なモノがそのお金で買えることが前提の話だ。


モノを買いたくても今の価格では買えなくなるくらい供給が減る状況は沢山考えられる。

・少子高齢化による働き手の減少とリタイア人口の増加
・国民の貯蓄が増えることによる働く意欲の減退
・気候変動による作物などの不作
・企業の倒産によるサービス・生産の消滅
・戦争や国家間不和による貿易の停滞
・大規模地震・災害・疫病の流行

例えば今起こっている航空運賃の値上がりは新型コロナウイルスの感染拡大による旅客数の減少で、航空各社が大幅な減便に踏み切り、航空券が品薄になったために起こっている。

食料がもし買えないとなればどんなことをしてでもそれを手に入れようとする。でなければ餓死をする。そのときはどんなに値段が高くなっても買う。そのような時に増税でもされようものなら暴動である。

MMTではインフレに対処するためには増税や金利引き上げにより貨幣流通量を減らして対処することになっている。しかしそのようなことをしても食料の供給量改善につながらないからインフレも解消しない。問題に対処するには食料の供給を増やさなければならないが、しかしそれは構造的な問題から起こり即座に解消できないかもしれない。MMTではそのような状況になったときインフレに対して打つ手がなくなる。貨幣の価値がモノに紐付けられていないことが仇となる。


お金はあるのにモノが買えないという状況になったときMMTの一番重要な前提が崩れる。信用の源泉が国家からモノに移り始めるからだ。

その時理論の一番大事なベースである所が崩壊し理論自体も破綻することになる。

2020年8月10日月曜日

音楽とは何か?


音楽とは何か?以下は私の完全主観による見解です。

音楽とは感情や精神性などの情報を伝える記号化手段の一つ。言語だけでは表現できないような気持ちの高まりや悲哀・自然への賛美や神への信仰心といったものを伝えることができる。言語だけで補えない情報の伝達手段として他には絵画や漫画といったものがある。音楽は感情や精神性の伝達に特化している。

信仰心を高める音楽・・・宗教音楽・賛美歌
士気や闘争心や祖国愛などを高める音楽・・・軍歌・行進曲
仏教的無常観や幽玄をテーマにした音楽・・・猿楽
商品の良さをつたえる音楽・・・CM曲
今日恋愛をテーマにした音楽がメジャーとなっている。恋愛というテーマ自体は古代からずっと扱われてきたテーマであるが、政府批判や社会転覆につながらないといった安心感から今日も広く扱われている。一方軍歌や宗教音楽は中央政権に危険視され、ほぼ絶滅状態となっている。

古来東洋の音楽は自然と融和し自然を模倣した音楽が多かった。
一方西洋では人間性と真正面から向き合うような情緒豊かな音楽が発展の中心となってきた。
例えば人の顔について伝えたい時、言語だけで伝えるのはとてつもなく難しい事ですが、似顔絵を書けばだいぶ伝えたいものに近づくことができます。音楽の役割も似たようなものです。
音楽は言語だけで補えない情報を伝える大切な表現手段であり、人類が何十万年何百万年と試行錯誤を重ねて生まれたものです。これからも音楽と向き合うことによって私達は人生をより豊かなものにしていくことができるでしょう。

2020年8月7日金曜日

誹謗中傷に対する法整備は必要か?



木村花さんへの誹謗中傷問題が話題になっています。誹謗中傷が本当にあったのかは調べていませんが多分あったと思います。なぜなら事実に1つでも違うことを言えば誹謗中傷にあたるし、「バカアホ」の類も言葉も誹謗中傷と言ってしまえます。「バカアホ」と呼ぶための定義は決まっているわけではないからです。テレビで注目を集めれば当然そのことに対する意見は出てきます。しかしテレビだけをみている人がその当人の人格から何から全てを知り尽くした上で意見を言うことは不可能です。沢山の意見があればその中から誹謗中傷が出てくるのは必然と言えます。しかし多様な意見のうち誹謗中傷にあたるものに対し法的制裁をかけるとなると話が変わってきます。何を持って誹謗中傷とするかを厳密に決めなければなりません。「バカアホ」は誹謗中傷にあたるかもしれませんが、しかし「バカアホ」ではないことを厳密に証明することは困難です。「バカアホ」は想像の中にしか存在しない概念だからです。
重要なのはそれを受け取る側のリテラシーであって、意見を言う側に制限をかけるのはお門違いです。言論の自由の侵害にもあたります。そもそもネット利用者は昔からネット上の意見を読んでも本気では信じていません。その意見や書き込みは本当かあらゆる点から吟味します。Amazonのレビューを読んでも「さくら」がいるかもしれない前提で読んでいます。大量の書き込みがあっても自作自演や特定利害関係者の書き込む可能性を常に疑っています。そのうえで自己責任で商品を買います。重要なのは読む側のリテラシーです。書き込む側は自由に多様な意見を言える環境を整えるべきです。そうでなければ社会の変化は急速に硬直化しギスギスした息苦しい世の中になるでしょう。

2020年8月6日木曜日

80年代初頭の中学校はなぜ荒れに荒れていたのか?

80年代初頭の教育暗黒史

今日では信じられないことですが70年代後半から80年代初頭にかけての中学校は荒れに荒れていました。校内暴力が全国的に日常的に見られた時代でした。
画像はイメージ

例えばこのような行動が行われていました。

<対教師暴力>
・校長室に乗り込み騒ぎ回った後湯呑みを割る
・先生の胸ぐらを掴む・顔面を殴る・集団でボコる
・女性教師のスカートをずらす
・授業中バクチクをならし妨害
・教師めがけて椅子を投げつける
・ 卒業式の最中に不良集団が一人の先生をバールでめったうちにする
・ 喫煙注意した教師に、中3生徒がタバコの火を押しつける
・ 校内暴力警察に知らせたと中学生30人教室に乱入

<生徒間暴力>
・ よその学校の不良グループが授業時間中に乗り込んできて校庭で乱闘
・ 中学運動部員14人が校内で暴れる、2人逮捕12人検挙
・上級生による下級生への陰湿な集団暴行
・生徒同士のリンチ事件

<器物損壊>
・廊下をバイクで走り回る
・ トイレのドアを故意に損傷させる
・ 補修を要する落書きをする
・ 学校で飼育している動物を故意に傷つける

<対人暴力>
・コンドームに水を入れて膨らませ校舎の上から通行人めがけて投げつける。

「校内暴力」がドラマや漫画の題材に
まるで漫画やドラマの話のように見えますがこれらのことが実際にあったため漫画やドラマの題材になりました。

例えば1980年には、中学校を舞台にしたテレビドラマ「3年B組金八先生」第2編では校内暴力が主題でした。
暴走族風の身なりをした「なめ猫」が流行りだしたのは80年代初頭でした。
「湘南暴走族」の連載開始は1982年でした。
「ビーバップハイスクール」連載開始は1983年でした。
「ろくでなしBLUES」は連載開始は1988年でした。
1984年高校を舞台にしたテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』では、オープニングでバイクが学校の廊下を走り、窓ガラスが続々と破られ、非行少年が警察に連行されるシーンが登場した他、本編でも暴力事件を起こす生徒が主題として扱われました。
1985年にリリースされた尾崎豊の「卒業」では夜の校舎の窓ガラスを割って回る歌詞があります。

このような出来事が実際に目の前で起こる時代でした。当時、竹刀を手にした教師の姿は珍しくありません。

学校の歴史

戦後すぐの1947年GHQは占領政策の一環として教職追放を行いました。国家思想や「お国のために」といった思想を教育から排除するため人事を一新しました。そのためこの路線は50年代も続いていくことになります。また小中高大を単線で進学する制度に変更し小中学校は義務教育となって教育が無償化しました。いままでは貧しくて学業ができなかった子供たちも学校に通うことができるようになりました。50年代の高校進学率は50%程度だそうです。73ー91年の安定成長期は国民所得の向上がみられた時代です。1970-1975の第二次ベビーブームでは高校進学希望者が増加し75年の進学率は91.9%程度となりました。

原因は何だったのか?

50〜70年代初頭は朝鮮戦争とベトナム戦争により作れば物が売れる時代でした。この時代に利益の方程式を確立した企業は「言われたことを素早く従順に理解し期待通りの成果を上げる人材」を期待し始めました。そのころ教育現場に普及しだしたのが詰め込み教育です。

「詰め込み教育」では知識が次々と教え込まれ用意された答えを素早く正確に答える事が求められます。この「詰め込み」の教育構造が今日では校内暴力が全国規模で多発することになった原因ではないかと言われています。

「詰め込み教育」によってなぜ校内暴力が増えるのか?

「詰め込み教育」はこの時代の企業が求める人材を育てるのに都合がよく、かつ教員側のメリットが大きいため普及しました。授業は用意されている答えをそのまま教えればよく、教師の教える能力が高くなくても安定した品質の授業を行えるようになりました。評価も用意してある答えと照らし合わせて点数をつけるだけでよくなるので格段に楽になります。点数が低い理由を生徒自身の努力不足や集中力不足に転嫁できるため指導力の不足は問われません。しかし学校側のものさしだけで出来不出来を決めるのはやはり歪みが生じます。GHQの政策により教員の思考も偏向されていたため指導を行う動機が生徒のため保身のためや学校のためと大義を欠くようにもなりました。生徒同士を比較すれば半数が落ちこぼれということになり、落ちこぼれの烙印を押された生徒は無意識にはけ口を求めるようになります。しかしそこにも大義はありません。結局目の前の出来事にのみ動物的に反応し自分の身の回りにいる人間たちだけを根拠として動きます。それが校内暴力のムーブメントとなってしまったのではないでしょうか。ひとつひとつを見れば偶発的に起きたかのようにみえる事件も全国規模で起こっているとなれば構造を疑う必要がでてきます。この時代の反省により教育は「詰め込み」から「ゆとり」へとシフトしました。

2020年8月4日火曜日

秀吉をバテレン追放に大きく傾けた島津の豊後侵攻。日本人奴隷として海外に売られた豊後の人々。

秀吉のバテレン追放令はなんの前触れもなく秀吉の独断で始まったわけではなく、それなりの理由があってのことです。



1586年3月の時点で秀吉はまだ織田信長路線を継承し、キリスト教布教を容認しています。ところが1年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放に大きく方向転換しました。その間に秀吉は一体何を知り大きく方針を変えたのでしょうか?

1586年に家康を臣下とし中央を平定した秀吉は1587年に以前より援軍要請のあった大友氏へ援軍を送り始めます。そこで知ったのは島津の豊後侵攻で大きく荒廃してしまった豊後の姿でした。

1582年の「織田信長」の死と1585年最強の大黒柱「立花道雪」の死によって島津は豊後への進出を始めた。
1586年10月島津義弘3万が肥後路から島津家久1万が日向路からそれぞれ侵攻を開始。島津は大友の城を次々と落とし12月には豊後で最も栄えていた府内城に侵攻。

秀吉が1587年に本格的に援軍を送り始めたため島津は1587年3月に撤退。大友氏は寸前の所で滅亡を免れたが、府内は徹底的に破壊され多くの人々が捕虜として薩摩に連れ去られた。

長い間戦場となった豊後の人々は、悲惨な状態に陥った
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考えて良い。

この豊後の戦いでは沢山の人が薩摩の捕虜となりました。戦国の習わしとして雑兵が行う乱取りというものがあり、民家や食料の略奪・人さらいなどは普通にあったことのようですが九州の地は海外と貿易を行うのに都合の良い土地で、そこにポルトガル商人の奴隷売買文化が合わさって、長崎の港で日本人奴隷売買が積極的に行われるようになってしまったようです。


「一五五〇年から一六〇〇年までの一五年間、戦火に追われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった。」
ポルトガルと日本の交易において、「日本からの商品は、奴隷以外はほとんどなかったらしい」とある。  
「秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが~(中略)~黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。」 

平定した豊後を復興しようにも人が少なくなっており田畑を耕せない。国内で連れ去られる分には解放すればよい話だが海外に連れ去られたのではどうしようもならない。秀吉はイエズス会に厳重に抗議し、イエズス会からポルトガル国王にも陳情を行ったようだが、奴隷は主に東南アジアで売り捌かれており、国王の力がまるで及ばない。カトリックの教えを都合のいいように解釈すれば異教徒の売買は正当化されるのであった。

日本人奴隷の有名な話では遣欧少年使節団の見た話がある。

マンショ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。

単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。

しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

秀吉は九州にきて、長崎が寄進されてイエズス会の領土となっていることを知り、その地で二束三文に人が売り飛ばされている事実を知った。そして1587年6月には大きく方針を変えてバテレン追放を布告したのでした。

2020年8月2日日曜日

夫婦喧嘩になる理由にはどのようなものがあるのか?怒りの心を鎮めるには?

夫婦げんかになる理由にはどのようなものがあるのか?調べてみました。


どんな理由で旦那と喧嘩になる? 夫婦げんかの原因
・飲みに行く回数
・女関係とお金
・育児しない
・遊んでばかり
・旦那の身内が遊びにくるとなると喧嘩
・同居している姑の生活態度や言動などを愚痴り過ぎたら喧嘩
・子供のしつけ
・娘にキツく当たりすぎ
・子供に甘すぎ

・喧嘩になる道筋は1つ「批判→防衛→見下し」
・「帰りが遅い」(批判)→「仕事がある」(防衛)→「仕事のことばかりで家族のこと考えてない」(見下し)

・言わないとオムツ交換・抱っこ・ミルク作りしない。産後1年間がきつい
・お金の使い方(子供に高いおもちゃばかりを買おうとする、その後私にプレゼント買ってきてもそういうことじゃない)
・寝かしつけが終わった後に触って起こす
・家事をしない
・言葉遣いや物言い
・生活態度(脱ぎっぱなし・食べっぱなし)
・子育ての考え方の違い
・帰宅の遅さとコミュニケーションの不足

1位・・・家事
2位・・・お金
3位・・・子供、子育て
4位・・・浮気、異性関係
5位・・・両親、親族

まとめると「家事」「お金」「異性」「育児」「親族」「生活態度」といったところでしょうか。

怒りの心を鎮めるにはどうすればよいか?

禅話の「非風非幡」というお話。

ある僧侶は旗が風にはためいているのをみて「旗が動いている」と言った。
それに対して僧侶は「いや風が動くから旗が動いてしまうのだ」と反論した。
それを見ていた師は「お前たちの心が動いているのだ」と諭した。

相手の行動言動が私をイラ立たせているように見えても心を揺らしているのは自分。相対世界に埋没してしまえば、イラつく心の理由を求めて相手のあらを探すことすらでてくる。特定の価値観や物の見方に固執してしまえば「言い争い」が生じます。どうやって揺れる心を止め怒りを鎮めればよいのか?いや止めようとする必要などなく、相対世界に埋没している自分を客観的に認識しなおせばよいと禅は説きます。揺れているのは自分の心のようだがその心は自分ではないことを知れば良い。では本当の自分はどこにいるのでしょうか?それを知るのが禅の修行ということなのでしょうがとりあえず怒っても不幸の輪が広がるばかりなので冷静に物事を考えていくほうがよいと思います。

ストレスフルな状況下にあって暴力沙汰を避ける第三の道とは?


「ええじゃないか」という日本の狂乱的民衆運動が昔にありました。

ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。

暴力的状況下においてジョルジュ・ソレル「1847-1922」は「シラ」と「カリブデス」という二つの大衆の状態を提示しましたが「ええじゃないか」の熱狂狂乱状態は、シラともカリブデスともちがう第三の道です。そこには笑いがあるからです。

「カリブデス」・・・大衆が熱狂に入って裁きを要求し、未来の理想のために現在を完全否定する状態
「シラ」・・・無気力になって統治者の言うがままになる状態
「ええじゃないか」・・・歌って騒いで踊って笑えばええじゃないか!

外国であれば商店街のガラスを割ったり火炎瓶を投げたりしそうなストレスフルな状況下に於いて、幕末の日本民衆は騒ぎ踊り謡って笑うことを抗議の意としたのです。このルーツは日本神話にあるアマテラス隠れている天の石屋戸の前で行われたアメノウズメと八百万の神たちに学ぶことができます。

「天宇受売命(アメノウズメノミコト)は天香山(アメノカグヤマ)の日陰「蔓草」を髪飾りにし、天香山の真折葛(まさきのかずら)をたすきにかけて、天香山の小竹葉(ささば)を数本束ね結んで手に持ち、さらに鈴をつけた矛をもう一方の手に持った。そして天の石屋戸の前の所々に火を焚いて、からの桶を伏せ、その上に乗って踏みとどろかし、神懸かりとなって「イツムユナナ、ヤココノタリ、モモチヨロヅ」と、そこに集まっていた八百万の神たちと共に歌い舞い、胸乳を掻き出し、裳の紐を陰部まで押し下げた。すると高天原がとどろくばかりに、八百万の神たちがどっと笑った。」

「アマテラスが石屋戸から出ていらっしゃった瞬間、天の原も、天の下にある地上も、自然と光に照らされて明るくなった。八百万の神たちが互いの顔を見ると、それぞれの顔はみな明るい中ではっきりと見えた。神たちは歓喜のあまりにみな手を伸ばして歌い舞い、共に声を上げてお謡いになった。「アハレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ」」

なんともすごい状況です。世界が真っ暗になった絶望的な状況なのに謡って騒いで踊って笑うのですから。

コロナ禍・景気後退・失業・揚げ足取りのような誹謗中傷などで暗くなりがちな今日の社会だからこそ、たとえ真っ暗な中でも笑いのあるアメノウズメと八百万の神たちを宴を心に思い浮かべて「ええじゃないか」と生きていきたいものです。

2020年8月1日土曜日

世界にはなぜ色々な言語があるのか?

世界中には英語や中国語といった様々な言語がありますが、そもそもなぜ言葉は違うものになるのか不思議。言語って一体何なんだって謎の一端に迫りたいと思い調べてみました。



同じ日本語でも離れた地域のお年寄りの言葉がまったく違うことから、長い年月代々に渡って暮らし地域の交流がないと別の言語になっていく。現代にはインターネットやテレビがあるため言語の数が減っている。

言葉が世界で7000言語と言われるほどに別れてしまったのはそれだけ地域間の交流のない時代が長かったから。

言葉というものは長い時間をかけて何となく出来上がるものであるから、その地域だけに住んでいる人同士で言葉が変わってくる。

自然的必然性とも呼ぶべき流れによって、結果として分かれてしまった。各言語において起源も発祥もまちまちで人々の歴史と密接に関わり合いながらそれぞれ独自の発展を遂げてきた。言語の問題は人間の歴史とも緊密に関連した壮大で奥深いもの。

言語は無数に詰め込まれた複雑な文化歴史意識思考の統合体のようなものでとても簡単に説明できるような代物ではありませんでしたorz。地域や時代で言語はしだいに構成され、しかし人間の生活が変わっていくように言語も変わっていく、そういう流動性があるのが言語そのものということですね。