フサリア部隊が活躍したのは日本で言えば戦国時代後期~江戸時代前半辺り。遊牧系の投げ縄対策に馬の背に大きな羽根飾りを背負っていたので有翼重騎兵とも呼ばれる。フサリア部隊の特徴は、圧倒的少数で大軍を打ち負かし、自軍兵の損害が少ないことにある。
ポーランドの重装突撃騎兵隊フサリアは戦史上で最も精鋭であり効率的な軍であった。
10倍を超える兵力差を物ともしないフサリア部隊
1588年、時としてはスペイン無敵艦隊がイングランド海軍に破れた頃、ポーランドでは王位継承権を巡ってスウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサを推す派閥とハプスブルク家マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒが争っていた。シグムントが前王の妻からの指示も得て戴冠式を挙行するとマクシミリアンは武力に訴えることを選び、ポーランド継承戦争が勃発した。ビチナの戦いにおいてはヤンザイモンスキー率いるフサリア部隊がハンガリー騎兵を圧倒し、戦闘開始からすぐマクシミリアン軍が後退を始めることとなった。フサリア部隊は敵を蹂躙した。
1605年ポーランドとスウェーデンの間でリヴォニアをめぐり戦争が勃発。キルホルムの戦いでリトアニア大公国大元帥ヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いるスウェーデン軍歩兵9000、騎兵2000に対しフサリア部隊は2600騎の少数で突撃を敢行。スウェーデン軍を20-30分で壊滅させた。フサリアの戦死者は約100。スウェーデンは6000~9000人と言われている。
1610年ポーランドの侵攻を受けたロシアはスウェーデンと同盟を結んで反撃に出た。スモレンスク近郊のクルシノ村付近でフサリア部隊との戦闘が発生。ロシア・スウェーデン軍約3万5千人に対してフサリアは5千騎で突撃を敢行し相手を壊滅させた。戦闘は長時間に及びロシア軍の戦死者は5000人を数えたが、ポーランド軍は400人(うちフサリア100騎)ほどであった。
1683年の第2次ウィーン包囲網ではフサリア部隊3000騎はオスマン軍15万の陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほどの戦闘でオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りに潰走。戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。
1694年ホドウの戦いで400人の騎兵で4万人のタタール軍を粉砕した。
なぜここまで強かった?
当時のポーランドは軍用馬の技術で最先端をすすんでおり、トルコ軍から捕獲した高価なアラブ馬の繁殖に成功していた。アラブ馬は当時のヨーロッパの他の乗用馬に比して体格が大きめで高速でよく走る。徹底的に調教された馬は戦場で怯えることなく敵陣へと突撃した。
ユサール
フサリアは突撃型重装槍騎兵であり、敵のパイクよりもはるかに長大な「コピア」と呼ばれる槍がまず第一の武器であった。突撃し目標を貫通するとその運動エネルギーによりコピアは折れた。自陣内に従者たち(移動と輸送のため駄馬に乗っていたことが多い)が控え、替えのコピアを何本も持っていた。騎兵は一度突撃すると自陣へ戻り、従者から替えのコピアを受け取っては集団を編成して再度突撃し、これを繰り返して敵を粉砕した。
サブ武器も剣・斧と豊富にあり、戦況に応じて弓やマスケットも使用することができた。
味方の砲兵隊、弓兵隊、銃兵隊による援護射撃との巧みな組み合わせで行われた彼らの独特な突撃戦術は敵のパイク隊や銃兵隊に対しても非常に有効であった。
フサリアの装備や戦法は敵軍の銃撃や砲撃に対しても非常に有効で、フサリア突撃時の敵軍の銃砲による損害は常に僅少であった。彼らは大きく散開したところからゆっくりと走りだし、速度を高めながら徐々に味方との横の距離を縮め、敵陣に到達するときに最も高速かつ最も密集した形となった。
低密度で突撃すれば、騎兵槍1本につき敵のパイクは2本かそれ以上になる。しかし高密度で突撃すれば、この割合は1対1に近づく。しかもフサリアの騎兵槍(コピア)は5.5mにも及び西ヨーロッパのランスより軽かった。これにより騎兵部隊では不可能と言われていた槍兵突破を可能とした。
戦闘では無敵だったフサリアも経済的事情には勝てなかった。
17世紀後半になるとフサリアは衰退していく。その理由は銃砲の発達によるものではなく、17世紀を通じて共和国を襲った度重なる大戦争、気候変動による土地生産性の急激な低下、および一部シュラフタ富裕層(マグナート)の税金逃れ、彼らの増税反対運動による政府および各地中小シュラフタの経済的疲弊であり、国家や中小シュラフタたちが完全装備をした大部隊を常設維持すること自体が世紀末にかけて急速に困難になっていったことであった。
17世紀も終わりになると国内が政治的に大きく分裂し、国軍においては熟練した兵員数の減少および(馬も含めた)装備の劣化が激しく、フサリアはもはや実際の戦闘に使用できる軍団として成り立つ状態ではなくなっていった。これにより中世晩期から近代初期にかけて共和国の対外戦争を華やかに彩った最強騎兵団フサリアは、軽装備ながらも部隊の維持が安価で済み、戦術の工夫次第で高い戦力を発揮した槍騎兵のウーラン(ポーランド軽槍騎兵)にとってかわられた。
コピアの先端についていた白と紅の細いバナーは現ポーランド国旗の原型となっている。その羽飾りを象徴としたフサリアは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ最強の騎兵隊として知られ、当時のポーランド王国の黄金時代を作り上げた。史上最強の重装突撃騎兵部隊フサリアはいまも戦史上のロマンとして熱く語り継がれている。